開発行政概論

日本福祉大学経済学部経営開発学科 生江 明

 

はじめに:

1.開発行政とはなにか
<援助と開発行政、そして国家主導の開発>

<「小さな政府」から「大きな政府」へ>

<国家意思としての開発>

 

2.発展途上国と開発行政
<植民地からの独立と開発独裁>

3.中央集権と地方分権
<地方自治体と開発行政>
<誰の開発、誰の行政>

最後に:

はじめに:公共事業の公共性とは何か

東南アジアのある国のある町で、浄化上水道システムを建設する公共事業が行なわれた。それまでは天水(雨水)や井戸水、あるいは溜池の水を女性たちやこどもたちが汲んでくるというのがその地域では当たり前だった。今では蛇口をひねれば、ごくんごくんと飲める水が手に入る家々がある。

この地方水道システム建設のプロジェクトを評価するのに二つのアプローチがあった。一つは、地域世帯数の85%に普及したこのプロジェクトを、その普及率を以って85点とする評価である。これは事業実施効率から迫るやり方である。「水道管はやってきた!あとはお金を払える人が自由にその恩恵を受けなさい、チャンスは平等ですよ!」というものである。そして、その結果85%の世帯に浄化水道水の供給サービスが届くようになった。便益者の量で評価する手法である。

 さて、もう一つのアプローチは、水道管を家に引けなかった残り15%の世帯に注目するアプローチである。調べた結果は、地域水準よりも濃密な割合で母子家庭、障害者家庭、貧困・困窮家庭が含まれていた(ジェンダー/社会分析)。つまり、この水道プロジェクトの地域世帯普及率は上の階層から普及しているものであることが明らかになった。この事業が私企業によって行なわれていたのなら、このようなことは問題にならないだろう。衛星放送事業を私企業が進めるにあたって、普及率あるいは市場占有率とはどれだけ顧客をつかんだのか、という点で評価され、株主総会では誇らしげに報告されるだろう。しかし、この事業はBHN(ベーシック・ヒューマン・ニーズ:人間として生きるために基本的なニーズ)に属する水道事業であり、しかも、衛生的に管理された浄化上水道という事業であった。もちろん公営水道公社という公共団体の事業である。この水道を引いた家の人は、経口感染症が減り、地域全体の感染症発生率は下がるだろう。そうした家の女性たちやこどもたちも水汲み労働から解放されて、ゆっくり休めるかもしれない。以前の苦労と比較すれば便利になった、すばらしい事業と評価されるだろう。

他方、水道を引けなかった困窮度や困難度の高い世帯では、その恩恵を受け取ることができなかった。病気があれば、より強く激しくそのインパクトを受けることになるだろう。水道引き込み工事代金として蓄えていたお金は、治療代へと消える可能性もある。さらにその世帯にとって水道の現実性は遠のいていく。もう一つのアプローチはこのことを考える。そう、ここで問われているのは、事業の公共性である。公営水道公社が行なう事業は、公共団体が行なうのだから公共事業と言われる。しかし、ここで問われているのは、その事業がいかなる公共性を有しているかである。上からの85%をもって85点と見なすのか、それとも底辺を切り捨てるか、考慮しない事業に、事業としての公共性をそもそも有しない、論ずるに値しないものと評価するのかが、問われている。

もちろん、すべてをその公営水道公社の責任には帰することはできないだろう。公社の監督省庁あるいは県庁などが基本的には関わっており、いわば政府がその予算措置を含めて責任を負っているのだから、政府はその国民にどのような責任を負っているのか、あるいは、負おうとしているのかが透けて見えることになる。「満足に水道料が払えないような人々には責任は負いません!」という公共事業部門の哲学がその国の政府の考え方である、とみなすしかないケースも出てくるだろう。水道工事会社の事業と水道公社の事業の違いがどこにあるかは、この事業が公共性に関わるか否かである。浄化上水道という便益をどのように地域に行き渡らせるのかという「公共性の社会技術」である。

 

托鉢を修行とする禅宗系仏教に曹洞宗という派がある。そこでは、「村を残しても、家を残してはならない」という托鉢の戒律があるという。一度ある村に入ったなら、「あの家はお金持ちのようだから托鉢しよう。あの家は貧乏そうだから止めておこうという区別をしてはならない」と言うのである。

 托鉢は読経の換わりに施しを受けるものである。貧乏な家からいただく一つまみのお米の重さ(もしかしたら「すまないねー」という謝りと感謝の言葉だけかもしれない)と、お金持ちの家からいただく一抱えのお米の重さをどう捉えるのか(逆の場合もあるかもしれないが)。フィールドワークの基本のようなこの戒律は、我々に公平とは何か、公共性とは何か、コミュニティとは何かを考えさせる。

 

 これまで、開発の世界では先に述べたような水道・電気・道路など社会の基本インフラの公共事業あるいは工業化を促進する水資源の確保供給などが優先的に進められてきた。開発とは近代化のことであり、それは産業化・工業化という言葉で示される生産や流通という経済の近代化を指していた。これを支援する事業が国家によって進められるのが開発であり、これを進めるのが開発行政という訳である。

 しかし、これまでの講で紹介されたように、そこには幾つもの問題が発生してきた。1993年6月にオーストリアのウィーンで開かれた国連世界人権会議では二つの主張がぶつかっていた。それは基本的人権の重要性を主張する西側先進国と経済開発をそれより優先すべきであるという途上国側の主張であった。そこにあったのは、実は1960年代に旧植民地から独立した新興独立国家群の開発の時代を導いた「経済開発至上論」と1980年代後半に現れた冷戦崩壊後の世界のあり方を模索する国連やNGOの「社会開発至上論」との対立であったとも言えるだろう。

滴下理論(Trickle-down Theory)と呼ばれる理論がある。一つの公共事業を起こせばその恩恵は下へと広がってゆき社会全体がやがて潤っていくという考え方である。シャンペングラスをピラミッドのように積み上げ、その頂点のグラスにシャンペンを注げば、やがて総てのグラスにシャンペンが満たされる。工業統計や農業統計などの統計上の数値が上がることを目指していけば、おのずとその国全体がその恩恵に満たされていくという美しい発展の姿が描かれた。そこでは国民総生産(GNP)が上昇することが目指された。生産向上・経済向上がやがて生活向上をもたらすのだから、文句を言わずについてこいという経済開発至上主義の原理である。滴下理論はこの原理の正当性を説明するものである。

 

 1994年からUNDP(国連開発計画)は人間開発報告書を毎年発表してきた。この報告書は世界各国の開発に関わる様々な指標を一覧比較しているが、それまでのGNPを中心とした開発の捉え方からHDI(人間開発指標)あるいはGDI(ジェンダー開発指標)という指標を新たに設定し、開発パラダイムの転換を積極的に進めている。それらの指標とその変化を見れば、それぞれ国の政府が、どこに力点を置いて開発を行なってきたかが分かる。あるいは、どこに手を抜いていたかが分かる。

       人間開発指数(HDI):対象国の平均余命の改善、教育向上などを測定して、一人あたりの国民所得によって調整

       ジェンダーエンパワメント指数(GEM):人間開発(経済的、政治的機会の提供)における男女性別による不平等を測定

       人間貧困指数(HPI):対象は先進工業国。平均余命、成人式自立、失業、貧困ライン以下で生活する人の割合などを測定

 

 

1.開発行政とはなにか

<援助と開発行政、そして国家主導の開発>

 1960年代は「開発の時代」と呼ばれる。それは旧植民地がぞくぞく独立したのが1960年代であり、それは東西冷戦を背景に東西両陣営が、それらの新興独立国家群を相手に自らの陣営を拡大しようと援助合戦に火花を散らした時代でもあった。開発行政学という分野が始まったのはこの頃のアメリカである。激化する東西冷戦の武器とされたのが援助であった。この武器を効果的効率的なものとするためにアメリカはその方法論を研ぎ澄まそうとしたのである。その援助が相手国の開発に効果的に使われるためにはどのような政策と仕組み・制度が必要であるのか、さらにはその結果として親米派を増やすことを、納税者たるアメリカ国民への説明責任(アカウンタビリティ)として示す必要があった。

 

 しかし、開発のための行政とは発展途上国だけに限られたものではない。1920年代末の世界大恐慌から回復するために、F.ローズヴェルト大統領の下、アメリカ政府はTVA(テネシー川流域開発公社)計画を進めた。戦後日本の地域総合開発のモデルともなったこの計画では、国家事業として流域に10箇所以上のダムを建設し、その開発投資による資材需要、雇用需要の喚起、治水と利水(飲用、農業用、工業用)による経済活動の推進、観光開発などの促進政策を行なった。

 

<「小さな政府」から「大きな政府」へ>

時に王権を倒し、近代市民社会を形成した欧米にあって、政府とは市民活動をことごとくに規制する強大な政府ではなく、治安や秩序維持、国防、司法、外交そして最小限の土木工事を行なうだけの「小さな政府」が理想とされ、それは「夜警国家」とも呼ばれていた。しかし、産業化の大規模で急速な進展は一方で社会的な諸問題の発生をも加速化し、その処理を役割とする「行政国家」あるいは「福祉国家」と呼ばれる「大きな政府」をもたらした。繰り返される恐慌、あるいは戦争のたびに、政府はその守備範囲を広げ、行政の役割が強まっていった。後発の近代国家群(ドイツや日本など)は国家主導型の開発を進めて先進国家群に追いつき対抗しようとした。特に、第一次世界大戦で本格化する国家総力戦と呼ばれる近代戦争体制は、それまでの専門的軍事集団による戦争から国民全体を総動員するものへと国家体制を転じていった。皮肉なことに、それが普通選挙権の確立から大衆民主主義への社会転換を一方で促すことになっていく。日本の社会福祉の領域においても、その大事な柱である厚生年金は第二次世界大戦へ国民を巻き込む過程で作られた。

 

<国家意思としての開発>

 戦後日本では国土総合開発、全国総合開発(全総と略)として敗戦後の復興・発展を国家全体の政策として、また国家主導で進める政策が取られた。このことは植民地から独立した国家群においても採用された。国家財源という大きな財源を使って、開発計画に沿う事業(プロジェクト)を国家が自ら行なうという体制は、目指すモデルへの長中短期の到達計画とそれに必要な資源投入の実施として設定される。その典型的な例は社会主義国家群が行なってきた第何次5カ年計画という名の国家総合開発計画方式である。開発は国家意思の実現過程として現れる。国家意思とは国家が設定する国家公益とその実現である。開発行政とは国家意思としてある政策の実現とその制度的仕組みである。行政全体の中でどこに予算が投ぜられるのか、どこに予算が投ぜられないのかを見ることで行政の政策構造が見えてくる。そして、その実施体制としての行政制度は国家統治構造そのものを示していくだろう。

開発とはその国をどのような国にしていくか、国の財政をどのような事業に振り向けていくかという政策の実行としてある。その政策はその国の中央政治が国家意思ないしは国益として決める。問題はその合意形成の方法である。

 

2.発展途上国と開発行政

<植民地からの独立と開発独裁>

 第二次世界大戦が終わって、世界中の欧米や日本の植民地は新たな動きを見せた。独立である。敗戦国の植民地は戦争が終わるとすぐさま独立を勝ち取った国々もあったが、戦後も植民地宗主国に対し独立戦争を続けた国々もあった。そして東西冷戦が厳しさを増す中、1950年代の後半から続々と旧植民地は独立を勝ち取る。

しかし、多くの新興独立国家は植民地になる前に自らの国家を確立していたわけではなかった。多くの民族が植民地宗主国間(帝国主義列強)の都合によって分断された。分断されたままの諸民族が、ある国の植民地という枠組みの中で強引に独立国家として誕生したことになる。植民地統治の原則は、それらの異なる民族間あるいは同一民族間の何らかの差別化による反目を利用し、「分断して統治する」ことであった。それらの民族や社会的勢力が植民地宗主国に団結して抵抗することを、強権的な抑圧や巧妙な対策で抑えてきた。いわば、植民地とは抑圧の社会制度であり、決して民主主義的な社会制度ではなかった。

独立後、多くの旧植民地新興独立国家群はそのかつての「分断された統治」を解決できず、新たな中央政権は「分断」の上に成立した。「開発独裁」と呼ばれる発展途上国の政治形態は、権威主義的な開発政策と強権政治からなる体制を指しているが、それはかつての植民地の国民化(Nationalization)と捉えることもできるだろう。国民に主権があり、その主権者の合意の下に公益が設定されるのではなく、政治的指導者(その多くは軍事クーデターなど強権によりその位置についた)の意思が公益を決めた。その指導者の主観的意思で受益者が設定された。パトロン・クライエント関係と呼ばれる、気まぐれな指導者と追随することで受益者となれる主従のような関係が国全体を覆うケースである。合法性や正当性は指導者の意思に適うか否かに左右された。こうした権威主義的強権政治国家の例を、我々はアジアやアフリカ、ラテンアメリカなど各地に見ることができる。東西両陣営の海外先進国政府援助とは、こうした国家群にとってある意味では「ばらまき行政」「恩賞としての開発」あるいは「強権的国内治安体制」の財源となる可能性を深く持つものとなる構造にあった。したがって、これら被援助国(負債国)がIMFなどの構造調整政策を受け入れたとき、政治的弱者=社会的弱者への行政政策(教育、保健衛生など)が真っ先に切られていったのは、これらの政権が広く国民に依拠するものではないことを如実に示しているといっても過言ではない。

東西冷戦が終結した1980年代半ば以降、東西両陣営からの援助が減少へ転じ、これら強権的な政権の財源が弱体化すると、国内の反体制派とのバランスが変化し、各国に動揺が生じた。さらに、このような政権の多くは、情報公開をしていないか、その公開情報のレベルが低く、グローバリゼーションの基盤となる信頼性が低く、世界市場での通貨や金融の信用不安を防ぎきれなかった。1997年夏から始まったアジアの通貨危機がきっかけで、「開発の父」と呼ばれたインドネシアのスハルト大統領(彼とその一族は、一説には、1兆6千億円余りを私的に蓄財したといわれる)の政権が30年以上にわたるその開発独裁に幕を閉じたのは記憶に新しい。

 

3.中央集権と地方分権

<地方自治体と開発行政>

 発展途上国と呼ばれる国々において、地方自治制度を持っている国は極めて珍しい。ほとんどの国が中央集権体制を取っている。場合によっては行政には国家公務員しか存在せず、地方公務員をほとんど持たない例も多い。村などの基礎自治体は住民の互選によって村長を選出する場合もあるが、その上のレベルでは中央からの任命となり、県知事などの要職は大統領などからの直接的指名というものもある。こうして地方は中央の強力な権力に従い、開発自己財源(地方税などの)をまったく持つことすら許されていないか、ごく限定されたものしか持っていない例が多い。県庁などが存在していても、それらは中央政府の地域事務所であり、住民の作り出す地方政府ではないと言えるだろう。

財政面では、国民からの直接税(所得税、事業税、住民税など)を徴収することよりも間接税(物品税、輸入税など)の割合が極めて高い。また、一次産品(石油や鉱山資源、森林資源など)を国家が直接・間接的に財源としている。そのことは、一方において国民に依拠しない政府と、他方において国有財産に依拠する政府を生み出すことにつながり、さらに海外からの援助はこれらの傾向を底支えする構造を作ってきた。

 世界の森林資源、特に熱帯雨林がこの40年にわたり急速に減少してきたのは、国有林としての森林資源が減少してきたことを意味する。これまで森と共に生きてきた人々が、森林の国有地化宣言と共に、不法居住者・侵入者として排除されてきたのは、この構造の中で理解される。すなわち、そこに住む人々自身が決める開発ではなく、中央の人々が決める開発は、その資源の恩恵が地元の人々のために活用されるよりは中央へ運ばれてしまうという意味で、収奪的であったということである。

 ここ数年、インドネシアのカリマンタン島でプランテーション栽培のための焼畑が各地で山火事を引き起こし、その煙害がマレーシア側へと拡大しているという報道が繰り返しされている。日本人が好きなヤシ油製品の原料栽培を目的とするプランテーションは、インドネシア政府が契約で使用許可を与えた企業が行なっているものである。もともとそこに住む人々の焼畑は、自分たちの食糧生産のための小さいものであり、総てを焼き尽くす焼畑ではない。煙害をもたらしている焼畑は、開墾コストを最小化するための手法として一挙にあたり一帯を焼き払うものである。森の恵みを子孫の代まで得るために、森林資源を再生循環の許容量の範囲で使う、人々が長年培ってきた伝統的焼畑手法とは全く異なるやりかたである。

 発展途上国の貧困や環境破壊には、こうした住民自治を許さない政治体制が基本にあり、人々の外見的な前近代的生活があったとしても、それとは裏腹に、近代的な環境破壊と構造的貧困とが基本にある。明治時代に日本の村々で小学校が住民によって建設され、教員の給与も住民によって支払われた。それが可能となった要因の一つは、学校財産区林などの社会財産を地域社会自身が持っていたためである。すなわち、発展途上国の多くでこのような地域社会財産(コモンズ)が許されないために、あらかじめ奪われた生活・社会基盤の上に人々は生き残りをかけて生活している。

 

<誰の開発、誰の行政>

 第1講で「善い開発」とは何かが論じられたが、そこで「誰にとっての」「誰による」「誰のための」開発かが問われた。言葉でいえば、それは「公共ための開発」と言えるであろうが、いかなる理由と根拠をもってそれを「公共の利益=公益」と捉え、誰がどのように決定するのかという点を抜きにして、この「公共」という言葉は語れない。通常、「公共」という言葉は合法性を根拠とする。正式な社会的手続きを経て認められる。しかし、冒頭で紹介したように、手続きとして合法であることは必ずしも公平を意味しない。多数決で決められたことは、手続き上は正式であり正当であるように見えるが、そこに少数意見の発言と権利が認められていない限り公平を保証しない。単なる勝ち負けだけを意味することになるだろう。部分は常に全体より小さい。そのことをもって常に「全体」を代弁すると称する政府や国家の意思に、「部分」は問答無用で従わねばならなくなるだろう。しかし、多数決で決めてはならないことが基本的人権であると考えるとき、基本的人権を守ろうとしない政府を倒す権利を認めたアメリカ合衆国憲法の持つ意味を高く評価することができる。それは形式的正当性という合法性の基本条件を認めた上でなお、それが人間の基本的な願いにもとるものでないことを政府の憲法への義務として科したものであるとも言えよう。多数決が民主主義であるのは、「少数意見の尊重」が形骸化されたものでないこと、つまり、少数意見者がその反対意見なり、異議申し立てを抹殺されない社会的権利があることを不可欠の条件とするのである。

 

最後に:

 貧困・環境・女性という三つのテーマが今世界中の開発の現場で問われている。その開発プロジェクトが三つの視点から見たときどのように評価されるか、どのようなインパクトが想定されるかが問われている。そのことを通じて、開発の便益が単に経済指標の向上に止まらず、社会全体の底上げとして公平な発展へ向かうものであるのかを、つまり公共性のある開発を評価のポイントとする方向へと世界は向かおうとしている。総量としての開発利益の総和でこと足れりとするのではなく、これまで開発の進展のためには我慢すべきものとして、ないがしろにされていた貧困・環境・女性という三つの領域が持つ困難を解決することが開発に不可欠のものとされた。そしてそれらの開発過程は人々を開発利益の消費者としてでなく、人々自身を当事者とする参加型開発を手法として進めるものとなることで民主主義的な開発へ、社会の進歩と発展という社会そのものの開発へと転じていくことが期待されている。Good Governanceと呼ばれるのはこのような状態を指している。つまり、様々な問題が発生しようとも、その問題の故に人々が希望を捨てたりあきらめたりすることなく、また敵対や排除・抑圧という方法でなく社会の共生・協同という方法でその将来の解決に期待することができる社会の状態である。決して抑圧による沈黙の平和を意味しない。その時、開発行政とは人々の共同の夢の実現を具体化していく象徴として人々に捉えられているだろう。

(生江 明)