乾燥・半乾燥地域論(上) ―周辺から捉える近代化の意味あるいは近代化と環境論― 生江 明 |
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目次 序章 「周辺」から捉える「中心」の思考 1.周辺の持つ意味 2.周辺とその生活・行動様式 <生活の安定化手法> 第2章 生産向上と環境の破壊 ―中国内蒙古自治区の環境破壊のメカニズムを考える― 1.内蒙古自治区概観 2.内蒙古自治区の経済発展と環境 3.生態環境悪化のメカニズム 4.経済開発の手法化とその近代的思考 (以上本号) 第3章 生産と生活の限界から生まれる社会規範 ―ケニア国バリンゴ県の環境と生活様式の共存と衝突のメカニズムを考える― 1.非所有の所有―半乾燥地域における遊牧生活様式のもつ意味 2.所有の非所有―農業の定着化と遊牧の定着化 3.周辺の中心化と中心の周辺化 終章 近代における周辺の意味 1.成長の限界 2.近代開発論のパラダイム転換 (以上次号)
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序章 「周辺」から捉える「中心」の思考 1.周辺の持つ意味 周辺とは、中心から離れたまわりを指すきわめて相対的な概念である。そこでは何を以って中心とするのかによって、周辺そのものが規定される。したがって、「大都会の周辺に農村部がある」とも、「墓場の周辺には高層ビルが林立している」とも語ることもできる。それは、この言葉が、ある基点を設定したときのそこからの物理的距離を基本とする概念だからである。しかし、何ゆえにそれを基点と設定するのかという中心を定義する論議に価値評価の観点が加わるや事態は変貌する。それは、周辺が中心を定義するのではなく、中心が周辺を定義するものであるというこの言説特有の事態であるだろう。 例えば、かつて発見の時代と言われた大航海時代、ヨーロッパは自らを世界の中心であると言う自負を持っていた。自らを繁栄せる光の中心になぞらえたとき、アフリカは「暗黒大陸」と表現され、「地理上の発見の時代」を進めたその航海は「大航海」と称されたのである。そして、苦難の航海を経て中国・インドに到達し、それらを中心とするアジアの一大海洋貿易市場に遭遇したとき、彼らからすればその周辺地域たるアジアに、彼らにとっては未知の高度に発展した文明を見ることになる。それはヨーロッパが発見した中国が、その時、周辺を夷狄=蛮族の地とし、自らを中華としていたことに合い似るものがある。自らを中心に考え、しかも、そこは人が集まり賑わう発展した所と捉えたとき、そこから離れれば離れるほど、人寂しい未開の地であるという意味が加わってくる。周辺という言説に、繁栄や開化の度合いが遅れたところというニュアンスが加わってくるのである。そして、この遅れたところという規定は、何を以って先進とみなすかという発展観を基礎とするために、その特定の発展観を共有する人々の間に、周辺に関する共同観念が発生する。あたかも先進国から発展途上国を定義するように、あるいは健常者から非健常者を定義するようにである。そこには、ある種の健全ゆえの不健全な罠が潜んでいるような気配がある。 中心に対する周辺という概念に近いところに、辺境という言葉がある。しかし、中央から遠く離れた地域を指すこの言葉には少し異なるニュアンスがある。それは、人も多くは住まぬ僻地という意味である。言わば、人口密度のきわめて低い地域と置き換えることができるだろう。しかも、結果としての低人口密度を指すよりはむしろ、人を安易には寄せ付けない厳しい生存環境を指している。たとえ人口密度が低くとも、ニューヨーク市郊外の森林地域を辺境とは呼ばないだろう。あえて住宅地化などの開発を人為的に規制している自然環境保護地区だからである。 これから論じるテーマは、筆者がここ数年参加してきた二つの地域調査を中心に、この最後に述べた、人口集中を容易には許さぬ厳しい生存条件の地という意味での「周辺」から照射される「中心」を考察するものである。それは途上国の辺境・周辺地域を先進国日本から訪れた筆者が気づかされた、近代とは人間にとって何であったのかについて、その思索を巡らせたことの報告であると言い換えることができるだろう。テーマは、「周辺から捉える近代化の意味あるいは近代化と環境」である。 *その二つの地域とは、アフリカはケニア西北部に位置するバリンゴ地方および中国は北辺の内蒙古自治区である。前者はJICA(国際協力事業団)開発調査、後者は農林水産省の基礎調査地域として訪れてきた。これらの地域に共通した特長は、年間降雨量がきわめて少なく、かつ降雨の不安定な乾燥・半乾燥地であることである。時に砂漠地帯を含むこれらの地域の社会調査が筆者の仕事であったが、初めて訪れる乾燥・半乾燥地の調査は、過酷な条件の中で人々がどのようにして生きてきたのかを尋ねる旅でもあった。それは同時に、当たり前のものとして私たちが享受している現在の文明生活・文化生活の基盤が何であるのかを再認識する旅であったとも言えよう。 3. 周辺とその生活・行動様式 ― <生活の安定化手法> ― 人類の長い歴史の中で、人々は安定した生活を求めてきた。安定した生活とは、たとえ豊かでなくとも生命の安全と確保が可能であることを条件とする。湿潤で温暖な気候の地であれば、それは定着型の農業へと向かうように思われる。しかし、その地域の自然条件によっては、定着することが、むしろ不安定な資源獲得を意味するか、資源を食い潰す可能性が高いことを意味する場合もある。頻繁に移動を重ねることで大地の恵みを安定的に手に入れようとしてきた移動焼畑農業はその一つである。そして、ラオス山岳部の焼畑農耕民のように一箇所に焼畑を集中するのではなく、条件の様々に異なる何箇所もの小さな焼畑を耕作し(私の訪ねた集落ではそれぞれの世帯が、自宅から徒歩で30分から6時間位の距離に5〜6箇所の小さな畑を有するのが普通であった)、危険を分散することで気まぐれな自然環境の変化に対応する場合すらある。耕地までの距離が遠くなりすぎれば、新たな耕地の近くへと自宅をも移動させる。こうして、まためぐりめぐって元の耕作地へ戻ってくる、その循環の周期が31年に及ぶ場合もあった。 農業必ずしも定着型がすべてではない。牧畜とてもより豊かな草地を求めて移動することで安定した家畜の飼育を手にする遊牧型牧畜もある。それが自然の脆弱な資源条件に適合した、人々の生活の安定化手法であった。こうした循環型の生業とは、資源の回復力を損なわない範囲での資源利用=消費という一定の枠内に、与える負荷を制限することで資源の持続可能な維持と利用を試みる、人類の経験的英知であると見ることができるだろう。 しかし、何を以って重視すべき安定化要因、安全要因とするかには様々な違いがあり、そしてひとつでもない。先に述べたラオスで言えば、チベット高原より家畜とともに南下してきたといわれる高地ラオ人(ラオ=スン)は決して海抜1000mのラインより下へ下がろうとはしない。それがマラリアの生息限界であるからという。高度1000メートル以上の高原あるいは山頂を越えて飛行機が上がっていくと、そこには集落とその周囲に家畜が飼われ、そこから離れたところに天水依存ではあるが豊かに耕された高地ラオ人の畑が広がっている。マラリア感染の危険を冒してまで彼らはその活動域を拡大しようとはしていないことになる。そして、高地ラオ人の住んでいない1000メートル以下の山岳地域斜面や丘陵地に中地ラオ人(ラオ=トゥン)が移動焼畑耕作を続けている。上に述べた山岳民族とは彼らのことを指している。 他方、河川流域や道路周辺などの低平地には水田稲作農業を行う、ラオスの多数派民族である低地ラオ人(ラオ=ルム)が住んでいる。ラオスを構成する三民族の中では、もっとも豊かな条件に恵まれている彼らは飯米自給率が高く、安定した生活を送っている。その彼らの一部はここ10年ほどの市場経済化(新経済体制NEM)のもとで商品作物の生産を水田周囲の丘陵地帯で開始した。その手法は焼畑であるが、小面積分散型で移動しつづける山岳民族のそれとは著しく異なる焼畑である。生活基盤としての稲作を確保した彼らが行う焼畑は、一山丸焼きという大規模な焼畑方式であり、収穫が減ると次の山や丘へと移ってゆく。このラオスにはそれぞれに異なる基礎条件・基礎環境のもとに、三つの異なる安定と発展・拡大の手法(=生活スタイル・様式)を持っている人々が生活していることになる。 水田という主食食糧生産の安定装置により生活基盤の安定化を果たす低地ラオ農民にとって、その発展は収穫量の増大あるいは収益量の増大であり、それは所有面積の増大、あるいは畑地を含む耕作面積の増大へと向かうことになる。面の拡大を手法とするこれらの人々の集落は大きく、100ないし200戸の規模を持つのが普通である。主食飯米が確保されてあることは、飛躍への冒険へと人々を駆り立てることを可能にする。ここでは、開発とは、欲望の大きさに比例する一山丸焼きの行動様式として、その発展とは、山また山の向こうへとその収奪型焼畑を展開することを意味するだろう。 移動焼畑を基盤とし、耕地を拡散することで作物の危機を分散化する中地ラオ人の場合、その生活基盤の安定化は移動焼畑を行う自分たちの生活圏の生態環境を維持することが基本であり、集落規模を無制限に拡大することは許されず、その集落規模は25戸程度を基本としている。したがって、地域の生態規模に見合った集落規模を超えると分村が始まる。そこには低地ラオ人のような面的拡大へ向かう要素は少ないことになる。そのような面的拡大は自身の生存基盤の破壊を何よりも意味するからである。そして、ほとんどの生活時間と努力はその生存の維持のために注がれることになる。自らの生存の維持と確保のために自らに課した不自由な生活様式の中で、その発展の可能性は大きくはない。森の中に生育している薬用植物などや小動物を採取して市場で換金するなどその可能性はきわめて限られている。 このような彼らの生活を強く脅かすものに外部からの圧力がある。一つは政府の自然保護行政という名の焼畑地規制がある。もし彼らの焼畑予定地を含む生活圏が半分に減らされたとしたら、彼らの焼畑周期は半分に減ることになる。それは焼畑で使った自然が元どおりに復活する前に、また焼畑として使い始めることを意味する。それは自然の資源としての力の減退ないしは食い潰しと、収穫量の減退を意味する。あるいはその保護地域への立ち入りを禁じられたら、森の資源を利用して支えていた生活のレベルが低下することを意味する。 もう一つの圧力は、低平地から上がってくる大規模焼畑の低地ラオ人たちとの利害の衝突である。かつて、山岳部斜面は水田稲作農耕民である低地ラオ人にとっては資源とはなりえなかったが、今やそこは商品作物の栽培可能領域となった。これまでの慣習的な住み分けの前提に変動の波が押し寄せてくる。 近代的所有権法に基づく土地所有権の確定作業が始まったラオスにおいて、低地ラオ人の拡大型焼畑の展開が土地所有権の登記と連動していくなら、その意味は重くまた危険性をはらむものとなる。中心が周辺を蚕食することの合法化を意味するからである。かつて、ネパールにおいては特定の誰かのものではない土地は国有地とみなす法律が施行された。共有地(コミュナル・ランド)の解体である。ちょうど明治40年代から始まる政府の「地方改良運動」に大きく揺さぶられた日本各地の入会権紛争や神社合祀紛争(その内実は寺社林の統合化による公有地の拡大政策と地元コミュニティの衝突であった)とその意味を同じくするものである。 市場経済圏の圏内に入ることで、より多くの利益をあげる道を選び始めた低地ラオ人の行動様式と、自然の許容負荷限度に見合う程度でしか利益を得てはならないとする中地ラオ人の行動様式のこうした対比は、これから述べようとする中国やケニアの事例を考える際の導きの糸になると思われる。周辺とは中央からの大きな流れがこれまでの人々の生活様式の存立基盤を脅かし、流れ込む先であると認識することができるだろう。その中央からの流れとは、近代化された生産・生活行動様式である。続く章では、その生産・生活様式の変化から近代化の意味を探ることとしよう。 第2章 生産向上と環境の破壊 ―中国内蒙古自治区の環境破壊のメカニズムを考える― 序章の1で、この本稿が人口集中を容易には許さぬ厳しい生存条件の地という意味での「周辺」から近代化というものを捉えようとする試みであることを述べた。それは途上国の辺境・周辺地域を主に歩き回り、そこでの社会開発に関わることで生活してきた私にとり、自分の仕事が持つ意味を捉え返す作業でもある。1996年から始まった中国農村・農業の調査旅行は毎年三回2ヶ月余の期間に渡って行なわれた。踏査した地域は四川省から上海までの長江流域各省、そして中西部陝西省、東北地域内蒙古自治区である。 かつて1950年代の映画館のニュースフィルムが解放後の中国人民政府が人海戦術で進めるダム建設や産業建設を映し出していた。その『大躍進』の時代を経て、『文化大革命』に揺れ、そしてその後の『改革開放=社会主義市場経済』への急激な転換を遂げる中国とは、長いあいだ私にとって想像を絶する巨大な未知の国でありつづけた。 私にとって中国は魯迅の故郷であり、阿Qが処刑の前に聞いた人々のざわめきの国でもあった。1965年の秋、急に社会的なことに関心を持ち出した私は魯迅を読みつつ中国の深さを感じ、毛沢東の矛盾論に中国の広さを感じ、日本語版『北京週報』の購読者となり、以後6年ほどその読者となった。中国という国や社会のイメージを持つには至らぬほどの大きな混乱を抱いたまま、私にとって30年が過ぎ1996年初夏に初めての中国調査が始まった。あまりにも巨大な中国、文字だけで知っていたこの国を理解することがこれほどに難しい国であり社会であることに私は戸惑いつづけた。調査団が調査最終年度の1999年に内蒙古自治区に入った時、私が目にしたのは、大規模に進行しつつある塩類集積、草原の砂漠化、ガリ・エロージョンという環境の破壊であった。
1.内蒙古自治区概観 中国内蒙古自治区は中国の辺境・周辺の地の一つである。自治区という名からわかるように、漢民族を多数民族とする時、少数民族の一つ蒙古族(かつての清朝を建てた)の自治区であり、周辺の地と捉えてよいだろう。しかし、その都フホホト(呼和浩特)市は北京からわずか約1000キロしか離れていない。東西2400キロ、南北1700キロ、面積118万3000平方キロという日本の3倍余の広大な地域に2263万の人々が暮らし、その人口密度は17.2人/平方キロとなっている(1997年、以下同)。その民族構成は蒙古族16.2%、漢族80.3%、満州族2.0%であり、残り1.5%をその他の41民族が占める。 北部は内蒙古高原と呼ばれる海抜1300から1600メートルの地域で、その西部には面積78000平方キロのアラシャン大砂漠などいくつもの砂漠や2200平方キロの呼倫湖がある。中部には東西1000キロに及ぶ陰山山脈が海抜1100から2300メートルの間に広がっている。中国東北地区に接して伸びる大興安嶺山脈の南東嶺が自治区の東部に位置し、その先は海抜80から250メートルの平原となっている。南部にはオルドス高原があり、その上には東西400キロのクブチ砂漠などがある。 地域全体は、年間降雨量50ミリから500ミリの間にあり、乾燥・半乾燥気候区に属している。年平均気温は3.8度Cであるが、北部地域はマイナス4度C、南部地域では8度Cである。夏季は冷涼な地域、高温な地域とがあるが、冬季は地域全体が厳寒地域となる。陰山山脈の南麓にあるフホホト(呼和浩特)市で年平均気温はマイナス7.8度C、年平均降雨量386.7ミリである。その主産業は年間降雨量200ミリ以上の地域で営まれる農業そして牧畜である。
2.内蒙古自治区の経済発展と環境 1999年8月初旬、陰山山脈南端の海抜1000メートルを超す丘陵地には、すでにミゾレ混じりの強風が吹いていた。短い夏の終わりに申し訳ていどの秋が続き、すぐ酷寒の冬がやってくる。解放戦争の後、多くの山西省など漢族農民の内蒙古南辺への政策的移住があった。東西1000キロにも及ぶ陰山山脈の南辺から北辺へ新しい農村が誕生していった。現在、内蒙古自治区の人口は漢族が80%を超えている。大増産の掛け声とともに農地は広がり、そして、その分、森林は後退していった。 文革のあらしが吹き荒れた後、1979年以降中国全体が社会主義市場経済へと大きく舵を切った。人民公社が解体され、そして大地は農民に配分された。生産意欲に燃えた農民たちは自分のものとなった配分地を、斜面までも含め、耕地に変え丁寧に耕した。あるいは牧民たちは休閑草地をも放牧地とした。1989年から1998年の10年間で、内蒙古の耕地面積は50%増となった。同期間で農業生産額は約64億元から約303億元へと4.8倍に増えた(中国全体でも農業生産額はこの10年で3.84倍になった)。牧畜生産額は約45億元から178億元へと3.91倍に増えた。放牧草地の面積は、この期間に1万4700平方キロ増えたが、放牧地の家畜頭数は、羊で約1440万頭(36.5%増)、山羊で約800万頭(68%増)、牛はわずか4.5%だが約21万頭がそれぞれこの10年で増加した。舎飼の豚は67%増で約330万頭が増えた。減ったのは馬(17%=31万頭減)と駱駝(38%=約10万頭減)だけである。人々は生活向上の大いなる意欲を以ってこの大地を呑み込んで行った。 そしてここ10年の間に耕地や草原に大きな異変が起きている。一つは塩類集積であり、もう一つは大規模な土壌の流失である。さらにかつての豊かな草地の砂漠化である。写真はそうした一例である。フホホト(呼和浩特)市(広域市)の托克托県では、耕地の2割程度が排水路を持たない灌漑施設のために塩類集積による荒地と化していた。羊たちが塩を舐めに来る以外に用のない土地となっている。同じく呼和浩特市和林県では、なだらか
出典:内蒙古統計年鑑1999年版 はるかかなたまで広がるガリエロージョン な起伏を繰り返す丘陵地にどこまでも続く耕地の中に、深さ40メートル以上にもなる、えぐられた崖(ガリ・エロージョン)がぱっくりと巨大な口を開け、その深く切り立った谷をさらに奥へ奥へと枝谷を広げながらその進行を止めていない。鍚林郭勒(シリンゴル)盟(日本でいう県に相当)の、かつて野分けの風がようやく牛や羊の姿を現す程に豊かであった広大な草原では、草原の草はまばらで丈も極めて低い。沙地化(砂漠化)の始まりである。自然は人々の暮らしを呑み込み返しているかのようである。 *
中国の砂漠化土地荒廃化は拡大傾向にある。「荒廃地」区分は国土の27.3%(『中国砂漠化報告』中国林業部1997年報;林業部はその後、洪水の責任をとる形で林業局に格下げとなった)、最近20年間で平均2460平方キロ/年づつ拡大している。 * 中国農村は、独立以来の多大な努力の果てに自らの食糧自給を達成し、かつ改革開放・社会主義市場経済への変化の中で自らを新しい状況へと適応させるべく幾多の努力を払ってきた。ここ内蒙古自治区もその例外ではない。しかし、その全中国での努力が一方で、深刻な生態環境の悪化を招来してきたこともまた事実であり、中央政府の環境政策重視への大きな舵取りはますます本格化している。1999年1月発表の国務院開発計画委員会「生態環境保全のための八つの柱による保全・改善案」など生態環境の保全を基本に据えた全国的な政策形成とその実施は各地に広がっている。内蒙古自治区人民政府もこれに応え、2050年までの短中長期計画を作成し、自治区内の各級政府との協力の下、持続可能な地域生態環境と地域経済・社会の発展へ向けて、その大きな努力を注いでいる。 3.生態環境悪化のメカニズム 砂漠化の進行メカニズムは普通、以下のように描かれる。 @薪炭林の不足 → 過剰伐採 人口増加 → A家畜の増加
→ 飼料の不足 → 過放牧 → 砂漠化の進行
B食糧の不足 → 過耕作 しかし、これらの連鎖が順序の説明としては妥当であるとしても、人々が他の可能性を排除してまでも砂漠化の進行へ向かうしかなかったことを明らかにするものではない。 中国における生態環境の悪化は、大躍進時代の急激な過開発・乱開発に発すると言われる。中国全体の五ヵ年計画、またそれらを年度ごとに具体化した年度計画とそれらに基づいて各地に配分されたノルマの実現、という計画経済による生産指示とその拡大は、農業部門において農村の農民たちの努力によって担われてきた。そして、改革開放後1996年には九五計画の目標値5億トンを早々と越える食糧生産を実現したことは記憶に新しい。 こうした食糧生産増加の歴史的プロセスの中に、生態環境悪化のメカニズムの存在を仮説として提示することを本節では試みてみたい。 <耕地面積拡大による農業生産拡大時期―改革開放以前> 1949年の独立解放後の中国は、計画経済を核とする社会主義経済体制を採用した。中央の立案する年次計画案の実行が各地の責任となった。繰り返される増産指令に中国農村は応えてきた。その農業生産拡大には二つの方向があったと考えられる。一つは単位面積あたりの収量を増加させるもので、これには施肥、高収量品種、農薬、耕地改善、灌漑、機械化などの資本と労働の投資・投下が必要となる技術的な土地生産性向上策である。もう一つの方向は、生産ノルマの増加に見合う耕作面積の拡大である。これは前者に比べ資本と労働の投資・投下が少なくて済む。これら二つの方向は、互いを排除するものではなくどちらも選ぶことが出来る。しかし、資本蓄積の行われていない大躍進時代の農業・農村開発の手法は、前者よりも後者を選ばざるを得なかったであろうことは想像に難くない。そして生産物のほぼ全面に渡る政府買い上げと固定買い付け価格制度は、前者のような先行投資へのインセンティブを呼び覚まさない。この耕地の面的拡大が徐々に地域の森林地を呑んでいく。そして、全中国の至る所で、この天まで至る耕地化の風景が見られることになる。中国調査を始めたころの私は、そこに中国農民の努力だけを見て、感歎の声をあげるばかりだったのだが、今の私には、そこに中央の政策とそれへの地方の対応策という両者の生んだメカニズムが作り出したものという見方が強まるばかりである。 さて、この耕地拡大過程の中で、森林地の伐採、居住地周辺の林地の減少が進み、さらには人口増加に伴う燃料材としての森林資源の消費はこうした傾向に拍車を掛けたものと想像される。このような耕地の拡大は、以下のような様々なインパクトをさらに地域全体に及ぼしたものと考えられる。 森林の落葉、草などの有機資源は堆肥として土地に還元されることによって、その農業生産の再生産過程を準備するものであるが、耕地の拡大は森林そのものの減少、燃料材としての消費増大などにより地力の再生産過程が乏しくなっていったことを意味するだろう。農地を養う森林の許容度を越えて森林が伐採されるとき、やがて地域の農業生産には脅威が訪れる。そしてまた水分の保水装置としての森林面積が限度を越えて減少するとき、しかもそれが社会全体を動かす全体メカニズムであるとするなら個別地域内だけの現象としての森林地減少だけでなく、広範な周辺地域も含めた森林地の減少を結果し、それは大規模な気候条件を変えざるを得ないことになる。さらに、洪水防止のための保水機能を減少させた場合は、洪水の頻発と降雨時の流水量の増加と肥沃な表面土砂の流失、あるいは地下水系へ浸透する水量の減少を結果し、人間の生活を潤すはずの水資源は人々の目の前から速やかに去ってしまうだろう。 同じことが、急速な近代化を遂げ始めた明治20年代以降の日本において起きている。毎年のような洪水の多発が各地の中山間地を中心に見られたが、それらは輸出産業としての絹産業繁栄に伴う、広範囲かつ急激な森林地の桑畑化によるものであった。急峻な山肌にも多くの桑畑が切り開かれ、農村の産業化が急ピッチで進んだ。その一方で、急激に多発する自然災害が人々を苦しめたのである。第二次世界大戦中に禿山となった日本の山々が、その戦後期に多くの洪水を引き起こしつづけたことも同じように理解されるであろう。 さて、こうした地域の持続的発展性を保証するある限度を越えて耕地の拡大が進められるには、それを可能にする条件があったものと考えられる。その第一の条件(許容因)は、土地所有制度の国有のあり方であろう。国策としての農業生産拡大が土地そのものが国有地上で進められるとき、森林地の耕地への改変には、生活・生産改革のための明るい展望だけが先行し、これに反対する理由を有する人々ないしは根拠は少なかったものと思われる。地域生産力の拡大という大義名分、すなわち、党の公的課題である生産拡大という必要のためには、森林地の伐採・開墾は善であり、またそれは希望の象徴でもあったのである。 そしてもう一つの条件は、耕地拡大の余裕が当時においてはあったことが、これを始めること許した要因として上げられる。しかし、それがどこまで許されるべきなのかについての基準も根拠も当時は明らかにはなっていなかったものと考えられる。すなわちここにも、促進要因はあっても制動要因は弱かったということになる。 さらに、生産量の拡大の選択にあたって、単位収量増大という生産性拡大手法の費用負担・負荷が面積の拡大による生産量向上のそれに比して、著しく高かったことが上げられるであろう。このことは、施設改善や投入肥料などの先行投資を上回る利益、あるいは回収可能な高収益を上げることが確実となる保証があるなどの農家世帯のインセンティブがない場合、そして、計画経済の下で年間の努力目標値が外部から設定され、そして生産物買取り価格が一律に決まっている限り、高価な先行投資はむしろ余計なコスト高として人々のインセンティブを阻害する要因として働いたものと考えられる。つまり、必要以上の投資は必要ではなかった可能性が高い。 したがって、生産性向上という質的な垂直方向への拡大ではなく、耕地面積拡大という水平方向(面)への拡大が人々に選ばれたと推定される(誘因)。そこには内発的な技術的な変更の必要性やインセンティブは当事者には強く発生しないことになる。ネガティブなインセンティブの存在である。 このことは、肥料等の投入の低下による土地生産性の低下を推測させる。そして、資金を投資するのではなく、コスト算入されない労力の投下が選ばれ、新耕地の開拓をさらに導いていったことが結果としてもたらされるであろう。このことの繰り返しが、結局、面的拡大による生産拡大という手法に歯止めをもたらさなかったものと推定される。ここに、拡大の進行は、唯一他地域との境界線をもって終了するしかないことになる。 最後の要因としてあるのは、計画経済下にあって、食糧生産の課題は全国需要から割り当てられた生産量の実現であって、生態環境の保全はその条件枠として設定されてはいなかったことである。計画食糧生産確保の遂行政策に応えることが第一条件であり、また最終条件であった。この国家的目標実現こそが人民公社をささえる農村・農民の責任であるということが規定要因(至上命題)としてある場合、生産量確保の実現に関係しない事柄は配慮の外にあったと言えるだろう。自然環境の破壊は農村・農民自らの責任というよりは、任務の実行の結果として、言わば、公的責任を遂行するために結果として発生した自然生態環境の悪化として描くことが出来るであろう。政策としての生態環境保全策の非在である。生産量確保・拡大の至上命題の下で、外発的な開発は開発の現場である地域内部にその限度や限界の設定を用意しえなかったのである。つまり、地域社会という生態環境の保全当事者という責任は存在し得なかったのである。 以上の諸要因が、改革開放以前の農村における生態環境悪化をもたらしたメカニズムであると仮定される。経費をかけない生産拡大が森林地を含む自然生態環境の破壊を伴う耕地の面的拡大によって行われ、制動要因を持たぬまま促進されたというメカニズムである。 <細分化or配分化された耕地の生産性拡大時期―改革開放以後> −農牧民の経済意欲と環境保全の矛盾− 1979年から始まる改革開放に伴い、農家生産請負制がスタートし、地域内の土地利用権が農家世帯に配分される。このことが農家の生産意欲を飛躍的に向上させた。1980年から1996年までの年間食糧生産量は約3億2千万トンから約5億トンへと、凡そ56%の増加を実現した。社会主義市場経済への移行政策は食糧生産の拡大というインセンティブを農村・農民にもたらした。 今回の内蒙古自治区調査で訪れたフホホト市托克托県、和林県はそうした農業生産の向上を果たしてきた地域である。灌漑施設の導入、商品作物への転換導入、畜産の導入など積極的で、多角的な都市近郊農業の発展パラダイムと目される地域である。 しかし、現在この地域の問題は自然生態環境の破壊からの回復にある。そして、同時に回復と並んで、生計の飛躍が同時に果たされねばならない必然性が高い。面積上の拡大をし尽くしたこの地域には耕地面積の拡大という手段は残されていないと言える。むしろ、逆に、塩類集積やガリ・エロージョンなどの表土流失・耕地流亡という耕地減少へとつながる自然災害に曝されている。 こうした事態は、遊牧畜産業を主産業とする草原地域においても起きている。内蒙古自治区のシリンゴル盟はもう一つの今回の調査地域である。かつての計画経済時代、一世帯20頭の羊を飼っていたのが、社会主義市場経済下の現在では、80頭に達しているという。休閑草地を十分に有する、かつての改革開放以前と違い、現在の遊牧草地は世帯ごとに配分され、そこで飼育できる限界領域で家畜の飼育を行っている。草地はかつて羊の背丈が隠れるほどにあったというが、現在は野球場の柴ほどの背丈も無い草が一面に広がり、場所によっては塩類集積、蝗被害等が発生し、剥き出しの大地となっている。そうした地域には、砂漠化現象が生起しており、過放牧の弊害が自然生態環境の悪化となって出現している。 *すでに1999年から内蒙古自治区全体で2000万ムー(約1万2千ha)の荒れた耕地や環境保全に脅威を与えている既墾地を森に戻す政策が始まった。少なくとも1994年以後に耕地となった場所はとにかく速やかに森に戻すよう指示が出ている。県(旗)によっては57%の耕地が森に戻されようとしている。当然、耕地を失いその土地では生活できなくなる人々が生まれる。1999年におよそ7万5千人の移住が実行された。 このようなフホホト市、シリンゴル盟の現状から、改革開放後の生態環境悪化・劣化メカニズムを仮説的に論ずるとするならば、以下のようになるであろう。 自然生態環境の悪化を以って、改革開放以前の農村環境があったとするなら、改革開放後はその悪化した生態環境の上に始まったと言って良い。農家生産請負制は、土地耕作権の配分の上に成り立っている。配分を受けた農家は所与の土地の資源化を高度化する方向へ向かうだろう。それは権利所有地内の雑木林などの疎林地域もあるいは斜面などの保全すべき土地も含めて全面的な耕地化など、農地の最大限の利用化へ向けて努力を傾注することになるものと予想される。草地においても、所与の草地全体の資源化=消費化に向かうものと考えられる。すなわち過耕作、過放牧という自然生態環境の過剰使用が結果する。農民の内発的な所得拡大・所得向上への意欲と実践が最大化される結果である。 *
シリンゴル盟におけるワークショップの中で、羊などの家畜の個体が小さくなっているという傾向が話題になった時、それが生産量全体の低下にはなっていないことが内蒙古側から説明された。つまり、個体の小型化にもかかわらずトータルとして羊毛生産や肉生産に停滞は起きていないということは、飼育頭数の増加によってこの問題をカバーしようとしていることになる。草地の劣化はこうした悪循環の結果として引き起されていくものと推測される。 かつては地力の低下による耕地の面的拡大によって切り抜ける手法があったが、しかし、現在、耕地はそれぞれに配分され境界の中に農地は閉じ込められている。したがって、もし従来どおり生産量主体の拡大が行われるとするなら、農地の過剰使用ないしは使用頻度の向上へ向かう以外無いことになる。そのことは自然生態環境の悪化からさらに劣化へと向かう懸念を生む。それはもはや自然生態環境の破壊をもたらす段階へ入ることを意味するだろう。 では、単位面積あたりの収量ないしは市場性の高い高収益型農業への転換という質的な生産性・収益性の拡大に関してはどうであろうか。つまり、先行投資を必要とする新しい農業の手法、農業経営の手法を取り入れる可能性である。だが現地調査における農家可処分所得の投資先の現状からは、その可能性が高くないことが推測される。すなわち、農家世帯収入から出される支出は、農業投資よりは農業以外の分野により多く向けられる可能性が高い。子どもの教育費、結婚費用、生活資材の購入などである。農家の生計収益の配分構造に、農業投資への余裕が無いとき、あるいは農業投資の回収不能というリスクが高いとき、未経験の新しい試みへの投資はそのプライオリティを下げることになるだろう。 さらにこうした質ないしは品種の農畜産物市場価格上の差異化が進んでいない現状は、人々の関心を量への固執へ向かわせたままにしている。そして、生産を農牧民の責任領域とし、運搬流通は国家の責任としていた計画経済時代にあって、運搬流通経費は全国全体経費を除したコストが一律に生産価格にかかっていたが、市場経済下にあってその経費が距離に比例するようになると、遠隔地生産者はそのコスト高の分を売り渡し価格から引かざるを得ず、まずます量の拡大へと向かうことになる。 * 年間の子どもの教育費(小学生500から600元、中高生4000元、大学生7000元)の生活に占める重さは年間の平均世帯収入4000元と比較すれば圧倒的なものであることが分かる。教育期間に引き続く、結婚の支度などと合わせた費用が、農家経済を圧迫し、ひいては農家の農業投資を強く圧迫していることが伺える。借入金に依存せざるを得ない農家は、返済能力や担保審査などの必要な公的融資よりは親戚からの借入にその多くが頼っているという。生産コストだけでなく生活・社会コストの構造から農民の行動原則を把握する必要性が極めて高い。
そして、もう一つ無視しえないのは、人民公社時代への反動からくると思われる公的組織へのきわめて強い警戒感である。公的管理への危機感・警戒感の方が強いために、リスク分散と収益の確実性を増すための組織化は進んでいない。これらに関しては、農民だけでなく牧民においても同様な傾向がある。そして、人々は今自分たちの生活水準を向上させるための消費へ向けて関心を強めている。 そして、公的融資、小規模金融などの公的助成システムや、新しい農家経営・農村地域経営の普及が整備されていくなどの外部社会条件の環境が変わらないなら、農民の農業投資に対するインセンティブは高まるチャンスを見出しにくいであろう。もし、このように従来型の農業手法・農業経営手法を敢えて転換するインセンティブが低いままに、それでも農民の生産拡大の意欲が旺盛であるなら、この悪循環は繰り返される可能性が極めて高いものと考えられる。 かつての公的責任を果たすことをインセンティブ(引き金)とした自然生態環境の悪化は、今度は私的欲求の追及のためにさらに劣化の方向へと進む可能性が極めて高いことになる。経費を掛ける余裕の無いままに急速に生産向上を図ることがもたらす長期的な危険性は、自然生態環境の破壊である。農民の所得向上への営みが、たとえ一時的な成功を収めたとしても、逆に長期的には所得水準の低下ないしは崩落へと向かう危険性が懸念される。細分化された農地の緻密で高度化された過剰使用による自然生態環境の悪化・劣化メカニズムである。改革開放前の粗放的な使用で悪化した生態環境の上に始まった改革開放後の農業が、その悪化した生態環境を集約的に過剰使用することでさらに悪化させ、生態環境という生産・生活基盤そのものの劣化へと向かう可能性があることになる。 以上が、改革開放後の中国における自然生態環境の悪化と貧困化のメカニズムに関する仮説である。そして内蒙古自治区は同一の生産力拡大という経済開発手法を、乾燥・半乾燥地域という脆弱な自然の環境条件の上に実施したために、より先鋭な形での自然生態環境の破壊という結果を得てしまったものと考えられる。 4.経済開発の手法化とその近代的思考 内蒙古自治区の生態環境劣化とは、利益創出の限界を設定しない効率的で急速な経済発展方式という近代化手法の一つの落とし穴を我々に示唆しているように思われる。経済発展の中心で行なわれている手法の画一的適用がもたらした落とし穴とも言えるが、逆に捉えれば、その中心で行なわれている手法が持っている明示化されていない前提条件の危うさをいち早く現前化させていると捉えることができるだろう。 すなわち、生産とは、資源を消費することであるという基本原則である。昭和30年代の日本では、石炭から石油へのエネルギー革命が進められた。エネルギーだけでなく生産原材料としての石油が日本ばかりではなく世界の産業構造の基盤を変革した。日本はその資源を国内でほとんど産出せず、大部分を産油国からの輸入に頼っている。したがって、その枯渇は目に見えない。しかし、その資源は有限である。50年後にその枯渇は現実のものとなる。生産は資源消費そのものの上に成り立っていることを物語っている。 近代は自らの欲望の組織的な実現の時代であったと言えるだろう。機械化を軸とする工業化は大量生産を可能にし、エネルギー革命はその持続的な稼働を可能にした。それらの可能性を現実化する仕組みは大量消費である。それを維持するために市場の巨大化と世界化が不可欠となる。その市場での競争力の一つがコストの低減化である。そして機械はますます生産性を上げた。その機械のコストと言う生産性を最大限に生かすには、機械の生産限界まで大量に生産することになる。需要が生産を規定するのではなく、機械の生産性能が生産を規定することになる。さらに、それに見合う販売が必要となる。資源は供給されつづけねばならない。その資源が枯渇したとき、生産はストップする。かつて、熱帯の密林にその姿をあらわしたフィリピン・ルソン島アブラ州の近代的製紙工場は、密林を食べ尽くして廃棄された。今はその工場の残骸が赤剥けの山々を背景に立っている。 近代はその欲望の組織的実現の手法において、農業や牧畜をもその例外とはしなかった。そもそも人間の食欲を満たすために、野生の植物が耕地に移植され、そして欲望の大きさに耕地の大きさを決め、組織的な欲望の充足を人間の意志のままに果たそうとするものが農業であり、人類にとって工業化の第一歩は農業そして牧畜に始まったものだからであるだろう。しかし、農業や牧畜はその基盤を自然環境そのものに置いている。基本的には自然の恵みの許す範囲で行なわれていたものが、その近代化においてはその欲望の許容範囲を様々に乗り越え始めた。 かつて訪れたカンボジアの農村で人々の耕作地は、ほぼどの農家も2haほどであった。それは家族労働力の肉体の限界であった。肉体の限界が人々の耕地の大きさを規定していたのである。北海道を除く日本とほぼ同じ大きさの国に800万ほどの人口しかない国に、土地の所有権は意味を持たず人々が思い思いに自分の好きな場所を耕していた時代である。しかし、人々はそれ以上に土地を自分のものだと主張することはなかった。肉体の限界が決めていたからである。内戦後のカンボジアに日本からもNGOの農業援助が入り、戦時下の単位収量を3倍に引き上げた。次の作付面積を村人は三分の一にした。日本人は嘆いた。しかし、人々はお寺の再建や溜池掘りに精を出した。しかし、そこにトラクターが導入されたらどうなるだろうか。疲れを知らないトラクターは人間の欲望の限界を軽々と越え、耕作地と所有地の拡大を必然化するだろう。近代はこうして周辺へやってくる。内蒙古の草原でかつては羊を追っていた馬がオートバイに替わりつつある。一挙に増やした羊を追うには疲れを知らないオートバイがとても便利だと誇らしげに蒙古族の青年は語ってくれた。近代は様々な形で人間の肉体の限界を越え、欲望の止め金を外していくのである。 近代社会という「中心」からやってきた私にとって、「途上国」という「周辺」とは、生れ落ちたときからそこにあった「近代」が人間にとっていかなるものであるかを教えてくれる場所であった。この原稿を書いているアフリカ・ケニアの北西部バリンゴ県は今、1984年以来の旱魃に襲われている。牛の半数が死んだ、と人々は言う。気温は40度を超し、大地は干からびたままである。会う人々の多くは一日一度の食事がやっとであり、今日で三日食べていないという人もいる。雨が降るのを待っている。内蒙古自治区と同じ半乾燥・乾燥地域に属するこの地域では、1948年の人口密度4・4人/平方kmは1999年現在10倍の44・4人/平方kmである。遊牧民イルチャムスの住む土地は、現在、牧畜民と農耕民がせめぎ合う場所となっている。土地を共有地とすることで、過酷な自然の中でサバイバルを図ってきた人々に、土地の排他的個人所有による生産物の所有という私有地化を基本とする定着型農業の近代化が迫っている。次回は、非所有による所有と、所有による非所有についてここバリンゴ県マリガット郡ムクタニ郡の調査をもとに考えることとしたい。
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