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『どこへいくの?ともだちにあいに!』

いわむらかずお、エリック=カール・作
童心社(2001年11月15日発行)

 秋野勝紀による評論

 非常に珍しい絵本が出版された。いわゆるしかけ絵本といった制作技法ではなく、 アメリカと日本の絵本作家が1冊を共同で制作した点にある。しかもエリック・カールといわむらかずお、 という人気作家たちの作なのである。
 エリック・カールは、ロングセラーである『はらぺこあおむし』をはじめ、多くの作品が日本で受け入れられている。 いわむらかずおは、これまでたくさんの絵本を制作し、とりわけ『14ひき…』シリーズは人気があり、 キャラクターとしても確立している。しかも作家個人名を冠した美術館を設立し、多くの人に親しまれている。 そんなわけで国のバリアを取り払い、絵本という共有できる文化を介在に大物作家の共同制作である。

ストーリーは
 ストーリーを右からめくる、いわむらかずから見ていくことにする。 最初にいるイヌにネコが「どこへ いくの?」と問いかけることから始まる。
イヌ ともだちに あいに!
ネコ どんな ともだち?
イヌ うたが うまいんだ。
ネコ うたなら わたしも だいすき。ニャオ ニャオ ニャオ わたしも あいたいな。
イヌ いいとも。ぼくの ともだちは きみのともだちさ。
 このパターンで、ニワトリ、ヤギ、ウサギ、と加わり女の子にも出会う。タンバリンを持ったその女の子が、 左めくりから始まるエリック・カールのギターを持った男の子と出会う。この絵本の中央のページは、両開きが出来るようになっている。 開くと両作家の描いた動物たちが交わって、ギターとタンバリンにあわせ、喜び歌い踊る。上部には歌の楽譜が書かれており、 うたうことが可能になっている。よく見ると小さな虫や鳥たちも一緒である。この虫や鳥たちは、ストーリーの過程に見られ、 彼らのこれまでの作品に登場しているものたちである。
 ストーリーの展開は、添加を繰り返し高揚していく、というシムプルで絵本制作の原理的ともいえる技法である。 左めくりから始まるエリック・カールもまったく同じである。このよう絵本制作に至ったのは、 日本での両氏の出会いがきっかけだという。まったく異なるといってもよい作風で、 世間で多大な評価を受けている作家が、このような形で共同化できるのか、と感心するばかりである。

両作家の描き方の特徴
 ところが異質なものが一冊になり同時に見る者としては、相対化という意味で比較に心が動かされるものだ。 とくにストリーが同じだから、なおのことである。
 絵をエリック・カールの作から見ていくことにする。エリック・カールの画材は、 アクリル絵具を塗って色面を作ったものをコラージュで表現している。「色彩の魔術師」といわれているだけあって、 相変わらずの色彩で動物の特徴を表現している。アクリル絵具での色面が整っているのは、 ベースになる色にいくつかの色を重ね塗りをしてしるためで、それが見事な色をかもしだしているのだ。 塗り上げて作った色面にスクラッチをしたり、色面を透明なもので作っているようでコラージュの重なりも見ることが出きる。 それにコラージュの後に色を加えてもいる。というわけで、エリック・カールの絵は描く技法を解明していく楽しさもある。
 イヌは昔から人に使役されていたので、誠実と従順でかつリーダー性を発揮して、存在感があるよう描かれている。 ネコは自分に気を引く関係を求めているようなしぐさをし、ページごとにその気分の変化を描き、 コラージュなのに意外にもそれがリアルに伝わってくる。道すがら出会う動物は、どれもそれらしい特徴あるくふるまいをしている。 動物たちが男の子(少年といってもよい)と出合うために走っているの姿は、情景説明を省いて画面いっぱいを使っていて、 高揚感が伝わってくる。最終の出会いは、仲間に出会ったといった喜びが分かる。男の子がしゃがんでイヌに手をさしのべ、 イヌもまた片足を上げている描き方からも、解釈が可能である。
 コラージュは本来ギクシャクした感じになるものだが、それを乗り越えて動きを作り出している。絵の技法の側面から見れば、 色面の作り方とデフォルメがその効果を上げているのではないだろうか。またなによりも動物の特徴の中核部分を押さえていて、 それをそれぞれ存在感を持たせて表現する、動物への愛情を感じるのである。
 いわむらかずおの描き方はどうだろう。いわゆるオーソドックスな柔らかい線のデッサンをベースに水彩で表現している。 キャラクター化している『14ひき…』との紛らわしさを避けている。最初にイヌがネコに出会うのだが、 それぞれの区別がしにくく感じるのは、私だけだろうか。耳がたれているのがイヌなのだが、姿だけではなく、おりこうそうなイヌと、 ネコにもそれを感じ取ることが出きるのだ。ちょっとまてよ、次々とめくるとニワトリもヤギも行儀よく、ウサギとの出会いでは、 それをみんなが注視して迎えているではないか。女の子(幼児にも見える)に向かうときは、里山を中心に描きたいのは分かるが、 整然と一列に並んで歩いている。女の子と出会うと動物たちは一斉に声を発し、女の子は幼いながらも動物たちを仲間というよりは、 教え諭すような雰囲気を漂わせている。なぜか、いわゆる出会いの「はじけた」感じではない。

表現に見る文化の違い
 いわむらかずおは、ストリーが繰り返しで動物が添加していくバリエーションで構成していくことを、隊列を作った行進で進み、 友達が増えていく喜びはに対して、きわめて抑制的である。
 エリック・カールがミュジカル風だとすれば、いわむらかずおは能とはいわないまでも狂言にも思えるのだ。そうだそれでいいのだ、 それぞれの文化の違いが歴然としているのだから。しかも日本には童画というジャンルがあるし、動物もそれらしく描くというよりは、 その人が作り上げた「かわいらしさ」を表現してよしとするのだ。動物の表現ということで見れば、いわむらかずおは、 自分で作り上げた動物観であり、動物そのもののを表現する観点はあえて排除していると、私には思える。
 また、エリック・カールはコラージュであり、いわむらかずおはデッサンをベースにした描き方(表現といってもよい)である。
コラージュにリアリティとメッセージ性を明確に感じられたのは、画法と表現の意外性という、
絵の読み見取り(鑑賞)としては当たり前の事を確認された思いである。

どうしてイギリス語なのだ
 それにしても気になることがある。エリック・カールの作品は、どうしてイギリス語(本多勝一がいう)なのだ、ということである。 アメリカでも同時発売されたのかな、とも考えてみたがそれらしいことは書いていない。 もしかしたら値段のシールがはがせるようになっているのがそのためかな、と思ってみたが確証が得られない。 さらにアメリカ人が日本語の絵本を買うだろうか、と想像してみると同時発売ではなさそうに思える。
 そうだエリック・カールらしさを言葉でも維持するためか、と考えてみた。だとすると、 これまでのエリック・カールの翻訳絵本は何なのだ。子どもの英語教育が盛んになってきているから、そこでは重宝な教材になる、 というとらえかたをする人もいるだろう。何といっても日本では、イギリス語はまばゆいので、不快に思う人は少ないだろうと。
 しかし私は、エリック・カールの作が日本語でないことに、きわめて問題を感じている一人である。
 カナダは多文化(マルチカルチャー)主義を、国是としている。移民によって国家を形成していが、 それぞれ出身民族の文化をそのまま大事にするという政策である。しかし公用語である英語(ケベック州はフランス語)を、 カナダ人になると同時習得することを義務化している。言語というのは、民族あるいは国家の文化の中核をなすものだからである。
 日本は、日本民族と言語が一致している。だから公用語という考えを持たなくてよい文化である。外国語は、 あくまでも獲得したい人が選択して学ぶものであ。この絵本を手にすると、いやが負うでもイギリス語に向かわなければならない。 しかも多くの幼い子どもたちがである。それをさせるこの絵本って、一体何なのだ。 幼児期からの英語教育があることや小学校で英語教育導入が日程に上がっている時勢なので、 日本語の本と思って買っても英語も読まされることが、許容範囲とでもいうのだろうか。 読まなくっても絵で分かるだって、それはないだろう。
 福音館書店が日本の絵本を英訳して出版していることは、出版社としての見識を感じている。また、 都市部で広報などを5カ国語ぐらいにして発行している。これは国際化していく日本として、 日本語だけを押しつけない配慮として当然のことなのである。



(2001年11月)