『もこ もこもこ』谷川俊太郎・作/元永定正・絵 (文研出版1977年発行)
安藤聖子(学生・98年度卒)による評論
幼い頃の私の心をとらえて離さなかった絵本に、十数年ぶりにであった。あの頃の言葉で表現できなかった混沌とした想いが、
記憶の糸をたぐりよせるとよみかえってくる。この絵本に向き合うと、幼いときの想いと今の読み手としての自分は渾然としてしまう。
私にとっては、いまだにこの絵本の受け手であるため、いわゆる評論は難しい。
このような幼い時の絵本を受け止めた体験と、大人になってからのそれとを交差させながら味わうことは、
私だけの特殊なことではなく多くの人が持ち得ることであろう。絵本を大人になってから対象化しようとする作業は、
幼いときの思いといったりきたりできる幸せな時間でもある。
この絵本が大人になった今でも私の心をとらえるもうひとつの理由は、
幼い子どもから大人までの心をとらえうる普遍性を持ったすぐれた作品である、ということではなかろうか。
このようなことから、この絵本の受け手の立場に傾斜をかけた、評論を試みることにする。
[2〜3P]
青い空と地。地平線が白みかけている。凛とした空気である。何もいないし、誰もいない。青い青い空間はぬけるようにさわやかだが、
不気味な静寂が漂う。「しーん」という文字も、そのような雰囲気を強調している。無限の広さを感じさせるこの空間は、
どこか地球の果てのようでもあるし、誰かの心象風景のようでもある。じっと見つめていると、静かな空間の、
音とも感覚ともつかない響きが伝わってくるようだ。キーン、キーンというのが小さく混ざったしゅわーんという音が。
[4〜5P]
ページをめくると、なんと「もこ」と何かが出現した。この場面を創造した時、
作者の絵への想像の芽はふくらんでいったのではないだろうか。「しーん」という導入と「もこ」という最初の場面は、
これだけでもストーリーとして成立するくらい重要な場面である。ここは、無からの発生という衝撃的な場面であり、
それが、「もこ」というたった一つの短い、奇妙なおかしさを感じさせる言葉によって表現されている。
この最初の「もこ」は、レオ=レオーニの『あおくんときいろちゃん』の、
最初の場面の「あおくんです」というページに通じるものがあるように思う。
[6〜7P]
そして、もこもこと大きくなり、にょきと何かが生まれる。背景の色もかなり変化したが、
それは「もこ」や「にょき」の出現によって空気の色、におい、気配まで緊張しているようにも感じる。
「もこもこ」の色が黄色っぽい微妙な色合いで、それがもにょもにょもとうごめいて生きていることを感じさせるようでもある。
[8〜9P]
ここでは「もこもこ」は、急成長をとげている。でかくなって読者を驚かせる。でかくなったことだけでなく、
鮮やかにだいだい色にエネルギーを感じて余計に驚かされるのだろう。この時すでに、
「もこ」と「にょき」の間に緊張が生まれているようにみえる。「もこ」は「にょき」の方を、
「にょき」は「もこ」の方をじっと見ているようにもとれる。
[10〜11P]
そして、なんと「ぱく」と食べてしまう。決定的瞬間である。「もこ」は、真っ赤になって口をあけているのだ。
かわいいような恐ろしいような、切れた口が強いインパクトを与える。「にょき」は、おだんごのようで確かにうまそうだ。
「にょき」は「もこ」のエサになるべく生まれてきたのだろうか?自分から食べられたがっているようにも見えるし、
抵抗しているようにも見える。
背景は夕焼け空のようにピンクで、空間も興奮状態である。「もこ」の食べる行為と、体の裂け目が口に見えることで、
動物的イメージが形づられている。
[12〜13P]
もぐもぐとやっているぺージは、バックの青と「もこ」のレモン色のコントラストが鮮やかである。
体の色が赤から突然原色のレモン色に変わったので、「にょき」を食べてしまって体が何か反応しているように見える。
「にょき」を食べてしまってよかったのか…?そんな不安が、口の裂け目のぼよぼよとしたラインに集中する。
[14〜15P]
すると、つんといぼ(のようにもの)ができたではないか。それも真っ赤な!とても痛そうみえる。
触るとぷるんぷるんと震えるだろうか。いや、硬そうにも見える。背景には、不安がたちこめている。
[16〜17P]
「ぽろり」。思いがけずに取れてしまった。「もこ」の体には跡形もない。点線は、ユーモアを感じさせもするが、
人によっては逆に不気味さを感じるかもしれない。
[18〜19P]
ぷうっと赤い玉がふくらんだ。背景に奥行きが感じられず、また「もこ」も地の色に近くなってきて冷たく硬いイメージだ。
真っ赤な玉に読者の注意が集中する。
[20〜21P]
ページをめくると、成長した玉が目に飛び込んでくる。このぎらつき方は尋常じゃない、ときっと誰もが思うはずだ。
まことに異様な光景である。緊張が一気に高まる。
[22〜23P]
ああっ、とうとうはじけた。このページの中心の「ぱちん!」という無機的な文字と場面の様子とのギャプがおもしろい。
不気味さとかわいげがうまい具合に引き立て合っているのは、この本全体の特徴でもあると思うが、この場面でもそれをとくに感じる。
一方、背景は暗く恐ろしい空気が流れている。気がつくと「もこ」がいなくなっている。一緒にはじけて死んだのか?それとも…。
[24〜25P]
この絵本で唯一、文字のないページである。「もこ」のページが発生のシーンなら、このページは消滅のシーンである。
何か種か胞子のような、あるいは魂のようなものが上昇しているようにみえる。空気のつくった現象のようにもみえる。
まったく音のない空気のようにも思えるし、しゅわーんという音のような、何かが存在しているようにも想像できる。
背景は夕焼け空のようで寂寥感が漂い、なにか熱く激しいものが散った後の余韻を残していて、神秘的で物悲しい気持ちに襲われる。
私がこの絵本に取りつかれていた頃は、このページを一番長く開いていた。
[26〜27P]
クラゲのようななぞの物体が―考えてみるとこの絵本に登場するもの達は皆、なぞの物体であったが―ふんわ、ふんわ、
と浮遊している。ミズクラゲに似ているが、よく注意すると前ページの三角の先っちょの部分にそっくりであることがわかる。
ミズクラゲの足に当たる部分が、5本のやつと6本のやつがいることを、私は小さい頃からすでに知っていた。
クラゲのようなおばけと前ページまでの生き物が無関係でないはずだ、と確信して足の数まで数えていたのである。
背景は薄暗く、夕方から夜になったことを想わせる。夜、暗くなってからはじけた生物の残像が現れたかのようである。
[28〜29P]
そして「しーん」の場面である。最初のページに戻ったのだ。しかし、
最初のページの「しーん」よりも心なしか地平線の色が黄味がかっている。たった今まで何かがあったように余韻を感じさせる点が、
最初と違う点かもしれない。そうして静かに終わっていく…かと思ったら、最後の最後に、裏表紙の見返しに再び「もこ」と現れるのだ。
「ああ!また出た!」と思わず叫んでしまう人もいるだろう。またある人は、「ぎくっ」とするかもしれない。
「にやっ」とする人がいるかもしれない。とにかく、この場面に心魅せられない人がいるだろうか。
子どもの頃の私は、ちょうど「いないいないばあ」が面白いのと同じように、この場面を待ち望みながらページをめくっていた。
何度も読んで分かっているのに、最後のページをめくっていたのだ。何度も読んでわかっているのに、
最後のページを「でるぞ、でるぞ」とドキドキしながらめくり、
「もこ」を見ると「でたー!」と恐ろしさとおかしさを混ぜたような興奮の叫び声を上げるのだった。
そして最初のページの「もこ」に手をはさんでおいて、すかさずそのページから、またこの絵本の世界に入っていくのだった。
この絵本のカバーに谷川俊太郎さんの、変な「作者のことば」が載っている。それを読むと、
この絵本の遊び心がたっぷりで創ったことが伝わってくる。この絵本に取りつかれた私にとっては、
憎らしくもあるが解き放たれた遊び心で創られたからこそ、面白い絵本になったのだろう。
『もこ もこもこ』を読んでいる子どもに声をかけてはいけない。その子はもう、自分の世界へ行ってしまっているのだから。
『もこ もこもこ』の創り出す不思議な空間とその子の心象風景が溶けて混ざった、
この世のどこにも存在しないその子だけの精神世界なのだ。
そんな自分だけの世界を自由に飛び回ることのできる想像力の豊かな子ども時代に、ぜひふれて欲しい絵本なのである。
発生と消滅、その繰り返しというこの絵本の底流にあるものは、抽象的で普遍的、そして単純で自由で壮大なテーマである。
この絵本のとりこになったこどもは、ちょうど私が子どものころのように、それを何度も何度も開け、想像の世界へ旅することだろう。
(1997年9月)
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