ようこそ絵本と児童文学へのいざない秋野勝紀のコラム絵本ガイド

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秋野勝紀によるLECTURE

絵本の読み聞かせの仕方


 子どもたちは、テレビやビデオを簡単に見られる環境にあます。ビジュアルという点で類似性のある紙芝居や絵本が、 それでもなぜ衰退しないのでしょうか。テレビやビデオは文明の先進的モノであり、 紙芝居や絵本は人が介在しなければならない、いわば旧い文化財と思われがちです。
 ところが紙芝居や絵本は衰退しないばかりか、子どもたちに喜ばれて受け入れられています。 先進的技術を駆使したモノばかりをよしとしないのは、人間のありようを示唆しているようにも思えます。

 テレビやビデオは、モノとして優れているばかりか、内容も専門家が大勢で時間とお金をかけて制作しているので、 完成度は高いのです。それなのに紙芝居や絵本が喜ばれるのは、人が介在して与えることに独自性があり、 子どもにとってそれが魅力なのです。この両者は、優劣を判定したりするものではなく、異質なモノととらえておきましょう。

 紙芝居や絵本は人によって伝えられる、つまりそれを介在としたコミュニケーションに意味があります。 コミュニケーションですから、伝える完成度が問題になることはありません。しかし子どもたちに内容がきちんと伝わり、 心地よいコミュニケーションでありたいのです。そこで絵本の読み聞かせについて、考えてみることにしましょう。




読み聞かせとは

 絵本は開くという行為からして、もともと個人的いとなみのモノです。それに対して紙芝居は、 あらかじめ大勢の人を対象にしたモノです。絵本の読み聞かせについて述べる前に、紙芝居の表現についてふれておくことにします。 紙芝居は、ビジュアルになるようにできています。文章を脚本といい、会話が多く、 絵は動きを表現するためにアップなどが意図的に使われます。そんな紙芝居は読むといわず、演じるといいます。 会話が多いのでそれにふさわしい声で表現し、抜き方も途中まで抜いたり速度を変えたりと、演じるにふさわしいといえましょう。 本格的に紙芝居を演じる場合は、舞台の横で身体表現もともなってやるのです。 したがって、脚本をほぼ覚えておかなければ、演じることは無理になります。

 紙芝居はビジュアル性を出すために、演じる必要があります。 人が働きかけるコミュニケーションという共通点がありながらも、絵本とは違うものです。

 絵本はいつのころからか、読み聞かせというようになっています。たしかに文字の読めない子どもに対して読んでやることから、 現象的には読み聞かせでもよいでしょう。このようにとらえると、読めない人に対して代読する行為になってしまいます。 ところが文字を読めても、読み聞かせをしてもらうことは心地よいという体験をみなさんもしているでしょう。

 読み聞かせは、代読ではなく対象年齢を問わない語りによるコミュニケーションを楽しむと規定した方が、 その行為にふさわしいのです。本当は語り聞かせといった方がよいぐらいです。語りは、 対象とじかに接しながら語り手の声にのせ息づかいをも感じさせながら、パーソナルなコミュニケションです。 また代読の際の朗読と違う語りだから、特別の声などのトレーニングの必要はなく、自分流の癖も少し含んだ味を出してよいのです。 ただし大事にしたいことは、コミュニケションなので対象との相互応答(双方向)の心です。 その心があれば自分流の語りの味が磨かれ、人に物語の世界を堪能してもらい、双方の心地よい体験になるでしょう。

 ところで語りの意味を理解するために、朗読についてふれておくことにします。朗読はどちらかというと対象を限定しない、 または不特定多数を対象とします。したがって代読になる場合が多く、一般性を持った表現が求められます。自分の癖を出さず、 どちらかというと朗読者の感情を抑制し、聞き手に解釈や味わいを委ねます。しかし高度な意味で、朗読者の味が表現されることは、 言うまでもありません。語り(読み聞かせ)の技術―自分らしい語りをつくりだす。



下読みをする

 読み聞かせを、自分なりの語りにしていくには、まず下読みを十分することです。暗記するほどではないものの、 下読みをしながら作品を味わい、可能な限りテーマ(作者のメッセージ)を読み取るよう思いをめぐらしてみましょう。 そのテーマを子どもに直接伝えることはしないが、深い読みとりがあってこそ、語りが豊かになっていくといっても過言ではありません。 さらに絵本の場合、作品の構成や制作技法にも立ち入ってみることも必要です。

 それによって語りのテンポ、リズム、間のとり方、クライマックスの押さえ方などに工夫ができ、 その絵本を自分のものにした語りになっていくことができます。語りの場合声の質などより、 自分流でよいので、作品の深い読み取りが生命といっても過言ではありません。

 なお、下読みは自分で読むだけでなく、読み聞かせの仕合を友達とやり合うと、 客観的に作品を見られ思わぬ発見をするので、機会を多く作るようにしましょう。



ムードをつくる

 実際に読み聞かせをする時になりました。読み聞かせの前に、作品のテーマをふまえたムードになります。 冒険的ストリーだと快活に気持ちになるでしょうし、しっとりしたものだと抑制的感情になる、といったようにです。 音楽でいうと演奏前に冒頭にある曲想にそって心の準備をして、自分でそのムードになると同じです。



視線を注ぐ

 大勢の子どもを対象に読みきかせをする場合、視線の配り方を考えたいものです。相互応答の語りであリ、 可能な限り聞き手の子どもに視線を注ぐようにしましょう。そのためには下読みが大事になるし、 一瞬のうちに一行ぐらい(一フレーズといってもよい)先を読みこなしてから声に出すという技もみにつけるといいものです。 これは音楽で演奏する部分の少し前の譜面を読みながら音にすることと同じことです。 視線を配ることは、子どもが自分に語りかけていると思えるため、結果として集中力を作ることになります。



絵本の持ち方とめくり方

 絵本の持ち方ですが、中央の下を片手で持ち絵を手で閉ざすことのないようにします。めくり方は、 ストリーの流れを滞らせないことです。展開によって、ゆっくりしたり早くなったりします。 そのためには、読んでいるときに次のページをめくる用意をしていることが必要です。



自分の声を知る

 さて、語りで大事な声の表現についてふれることにします。語りは自分流でよいので、 まず自分の声がどんな声か自覚することが必要です。人それぞれ自分ならではの声を持っていて、 語りでいえばたまたま明るい弾んだストリーの似合う人、しっとりとした奥行きのあるストリーの似合う人と、さまざまあるものです。 ある段階まで自分の声に似合ったものを読み聞かせをすることは、自分の声を自覚するためにもよいものです。 しかし声の専門家ではないので、あくまでも自分の声を分かるためであり、自分に似合わないと苦手意識を作っては弊害になります。

 ところで自分の声を自覚する、ということも簡単なことではありません。ボイストレーニングをした場合は自覚できるのですが、 普通は、身近な人に聞いてもらうのが一番よいでしょう。



声の表現力

 次の段階では、声での表現力を豊かにしていく取り組みが必要です。どんな人でも6種類以上の声を出すことが可能なものです。 なぜならば、自分の声をベースにしてそれより高く低く、それをさらに大きく小さく出すと、相当な種類を出すことが出来るのです。 ただそれを、意識的に使い分けられるかどうかにかかってきます。



周辺言語を使う

 語りは声だけで聞かせないので、言葉の意味とその場面にふさわしい感情をこめたら、その結果声の表現力が豊かになります。 それを周辺言語といいます。例えば「あ」という声でも、恐怖、落胆、喜び、退屈、 といったような状況によってまったく違った「あ」になるはずです。それに「長い」という言葉が、 「ながーい」という言い方がふさわしい場合が多いし、「短い」は「みじかーい」ということはないはずです。 このようなことは、日常でも使い分けているはずですが、意識していないだけです。それを意識的、自覚的にできるようにしよう、 ということです。これに挑戦すれば、自分の声に合ったストリーにこだわる必要がなくなります。 自分の声に似合っていないと思われるストリーの絵本を自覚できたら、 むしろそれを克服しようという構えで挑むことによって、いっそう語りは磨かれます。

 読みきかせの技術について綴ってきましたが、これらはあくまでも手がかりのための理論であって、 たくさん経験することが読み聞かせの達人への道です。語りで伝えようという気持ちさえ持ち続けられれば、道は開かれています。



(1999年4月)